

女王卑弥呼の生涯 The First Queen of Japan
はじめに
邪馬台国女王・卑弥呼は、日本民族共有の精神的財産のような存在である。にもかかわらず、邪馬台国が何処にあったのか、卑弥呼がどのような人物で、どのようにして女王に推挙されたかについては、判然としない。
その結果、江戸時代の学者・新井白石の問題提起以来、邪馬台国がどこかについて、九州説と大和説が厳しく対立して来た。
2009年5月、早稲田大学で開催された日本古学協会の年次総会においても、卑弥呼が埋葬されているといわれる箸墓古墳の造築時期について激論となった。会議終了後、場外に出てみると、九州派と大和派が引き続き、激論を交わしている。今にも、どちらかが手を出すのではないかとの激昂振りであった。
かと思えば、邪馬台国の宿敵・狗奴(くな)国との苦戦の中で、卑弥呼は、阿修羅のごとく苦悩しつつ、死去したところ、この狗奴国は何処にあったかについては、郷土愛の強い考古学者は、トランプの「ババ抜き」のごとく、逃げ回っている。2009年11月も、狗奴国の本拠として、よく「ご指名」を受ける東海を擁護して、ある著名な考古学者が「狗奴国東海説は成立の余地なし」と題する講演を行った。しかし、実証的とは言い難かった。
このように、邪馬台国・卑弥呼論争は、常に熱気を帯びている。それは、卑弥呼の人気の投影なのかもしれない。このような中で、著者は、大筋において史実を踏まえつつ、その枠組みの中で、合理性のあるフィクションを導入し、物語性・ドラマ性のある楽しい、「謎解き」風の歴史小説に挑戦しようとしている。
百分の一程度の可能性を有するかもしれないフィクションの核心は、弥生時代、日本で最大規模の環壕集落を誇った肥前(佐賀)神埼郡吉野ヶ里の才色兼備の王女・卑弥呼が、7,80年、続く戦乱の中で、邪馬台国の女王に推挙され、半世紀にわたる倭国の統治によって、来るべきヤマト政治連合への礎を築いたとの推論である。考古学者、歴史学者等から、お叱りを受ける事、必定と覚悟してのことである。
弥生時代の倭国戦乱の中で、吉野ヶ里は、近隣の軍事至上主義の奴国の侵略を受けた。これに対して、卑弥呼は、強靱な平和主義の下、住民を一致団結させ、奴国郡を撃退した。その結果、卑弥呼・吉野ヶ里は、急速に存在感を高めた。
他方、安定した倭国を希求する倭国連合の長たる邪馬台国国王は、邪馬台国より北九州諸国を検察する権限を付与されていた伊都国国王、瀬戸内海の雄・吉備国国王とともに、奴国及びもうひとつの軍事至上主義国たる東海の狗奴国を制御せんと苦慮していた。
かくて、邪馬台国国王は、辞任を前提として、伊都国、吉備国国王と協力し、優れた政治・戦略家として急浮上し卑弥呼を邪馬台国女王に、紆余曲折を経て推挙・共立した。卑弥呼は、奴国が「生口」(戦争捕虜他)を対中外交の具とすることに断固反対した道徳主義者でもあった。
邪馬台国国王は、病弱の吉野ヶ里国王に書簡を送り、倭国全体の安定の発展のために、卑弥呼の助力を得たいと懇願した。これに対して、吉野ヶ里国王は、住民に絶対的に敬愛されている国王代理の卑弥呼を失うことは、吉野ヶ里にとって大きな打撃である。しかし、卑弥呼が倭国全体の安定と発展のためにお役に立てるのであれば、自分と吉野ヶ里の民は、それを光栄に思い、それを甘受する旨、また、卑弥呼の側近である摂政、検非違使、軍司令官を同行させる旨の返書をしたためた。その後、吉野ヶ里は、邪馬台国の繁栄と入れ代わるように、衰退し、歴史の中からその姿を消した。吉野ヶ里が、人々の前に、再度、その姿を見せるのは、1800年後の平成になってからである。
他方、卑弥呼が邪馬台国女王に就任してからも、主として東海地方に勢力を持つ狗奴国の邪馬台国への挑戦は執拗に続く。彼らの鏃(やじり)は、鏃身が大きく、矢を体から引き抜くときに骨肉を削ぎ落とす鋭い逆刺を有し、また、鏑のように音を発し、敵軍を恐怖に陥れる多孔性の鏃(やじり)を使用した。卑弥呼は残忍な狗奴国との激しい戦闘の中、失意の中で死去する。しかし、狗奴国の本拠地・東海と邪馬台国の大和盆地は、大和高原を経て、直線上にあり、その後、両国は文化的・経済的交流を深め、狗奴国は政治的にも大和に吸収され、安定した大和政権成立の礎を築いた。
卑弥呼を語るとき、それは、おとぎ話の「かぐや姫」ではない。ご託宣や鬼道や占いだけで生き延びた神がかりの人間ではない。そのような観念的・抽象的な要因では、軍事的緊張の強い戦乱の時代に、女王として、半世紀にわたり国を統括し、日本の国家連合の礎を築くことは不可能であった。卑弥呼は、厳しい現実の政治の世界を生き抜いた政治戦略家であったといえよう。
また、中国と対等に近い、友好関係を樹立した優れた外交家であった。卑弥呼の「親魏倭王」の称号は、卑弥呼が強烈に反発したと考えられる奴国の「漢倭奴国王」とは基本的に異なる。それは、漢の属国であることを自ら認めるものであるが、「親魏倭王」は、中国の皇帝、ずばぬけた知力と徳性を有す明帝(曹操の孫)が卑弥呼を対等の友好国の王と認めるものであり、聖徳太子の「日の出る国の天子…」を彷彿とさせる気概の結果であったと言えよう。
と同時に、卑弥呼は、正義を重んずる道徳的にして、謙虚な人であった。それだけに、卑弥呼は、神のお告げを聞く能力があるといわれることに、どう対応してよいか苦悩し続けた。
この卑弥呼は、推定在位40年、大和政権の政治的統合の礎を築き、その後、約二千年にわたる日本の歴史に大きく貢献した。しかし、晩年、肉体的衰えとあいまって、政治戦略的指導力の低下、伝統的宿敵・狗奴国の執拗な挑戦、さらに、個人的には、長年の隠れた恋人であった検非違使の毒殺、三角縁神獣鏡の偽造事件等により、公私に渡り逆境に立たされ、阿修羅のごとく苦悩しつつ、西暦250年頃、失意の中で死去した。遺体は、10年前から準備されていた箸墓古墳に埋葬されたと推定される。
この物語は、そもそも、千七、八百年前のことである。確たる証拠に乏しい。従って、「らしき」論を前提に、それを状況証拠の積み重ねによって固めていき、その課程において、知的好奇心を刺激するとともに、意外性・ドラマ性を楽しもうとするものである。
しかし、歴史的事実と合理的なノンフィクションを重層的に交差させるとき、日本最初の全国的統治者・卑弥呼は、政治的・戦略的・外交的・文化的・道徳的指導者として、日本史上稀有な優れた人物であったと言えよう。と同時に、日本民族の道徳的価値観の淵源に接近する思いもする。
華やかな人生の終盤において、阿修羅のごとく苦悩し、失意の中で死去した卑弥呼は、「西のクレオパトラ」を髣髴とさせる。この波瀾万丈の女王・卑弥呼の生涯を映像化すれば、それは、外交現場の経験者として痛感する、国際的に理解され難い日本民族の思考行動形式、特にその道徳的価値観の淵源をより正しく認識してもらうための手段にもなりうると考える。著者は、その実現のために、努力してみたいと思っている。
最後になりましたが、この拙著を準備する過程において、現地調査のために赴いた、奈良、吉野ヶ里、北九州、出雲、東海地方の考古学者、行政の方々の心温まるご協力に対し、同行した妻・神崎 愛ともども、心から御礼を申し上げます。なお、専門家の方々のご意見と多々異なるところがありますが、拙著は、史実とフィクションが交差する歴史小説であるとして、ご容赦頂きたくお願い申し上げます。
法学博士
宮本 信生
主な登場人物
| 卑弥呼 | 吉野ヶ里王女、邪馬台国女王 |
| 父・吉野ヶ里国王 | 学者でもある |
| 母・吉野ヶ里女王 | 卑弥呼17歳の時、病死 |
| 摂政 | 吉野ヶ里・邪馬台国 実弟、流刑 |
| 軍司令官 | 吉野ヶ里・邪馬台国 |
| 検非違使 | 吉野ヶ里・邪馬台国、潜在的恋人、毒殺 |
| 女官長 | 吉野ヶ里・邪馬台国 |
| 魏の明皇帝 | 曹操の長男、卑弥呼に「親魏倭王」の金印、銅鏡100枚下賜 |
| 愛国的密告者 | 吉野ヶ里神官、自殺 |
| 奴国現地軍司令官 | 見識ある荒武者 |
| 邪馬台国前国王 | 卑弥呼推称者 |
| 伊都国国王 | 一大卒、卑弥呼派、父親の代からの友人 |
| 伊都国摂政 | 卑弥呼派 |
| 出雲国女王 | 両親の代からの友人 |
| 吉備国国王 | 卑弥呼派、父の代からの友人 |
| 奴国国王 | 吉野ヶ里侵攻、反卑弥呼より親卑弥呼に |
| 狗奴国国王 | 伝統的な反邪馬台国勢力 |
| 摂政の妻 | 検非違使毒殺者、死刑 |
| 薬師 | |
| 三角縁神獣鏡偽作者 | 流刑 |